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福岡の方言を体系的に書いてあるので、興味のある方は読んでください。
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博多弁の単語集です。 |
こんな見方もあるのかと、目から鱗が落ちました。 |
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CD-ROM付きで、実際の方言による会話が聞くことができます。 |
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(本文引用)...外国語は母国語とまったく異なった次元において学習されるべしとするのが外国語論の前提である。この異なった次元という条件さえ満たされれば、もちろん、外国語が下手より上手がよいにきまっている。よりよく読めた方がよい、よりよく書けた方が望ましいのは言うまでもない。ただ、そういう外国語習得の努力が母国語と同じ次元において行なわれてはこまるのである。母国語の犠牲においてのみ身につくような外国語は、二重言語である。それはわれわれの精神を真に拡大することにならない。言語生活において、外国語と母国語の総和が普通人の母国語に等しいような、そういう外国語学習は悪い二重言語である。外国語がわれわれにとって言語的世界の純増になるには、母国語の世界を犯さないということが必要である。...
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(本文引用)...ソシュールが摘出した「言語(ラング)」は、決してそれ自身一体なるべき単位ではなく、又純心理的実体でもなく、やはり精神生理的継起的過程現象であるといわなければならない。言語表現に於いて、最も実体的に考えられる文字について見ても、それが言語と考えられる限り、それは単なる線の集合ではなく、音を喚起し、概念を喚起する継起的過程の一断面として考えられなければならない。若しこれを前後の過程より切離して考える時、それは既に言語的性質を失うことになる。かくの如く、言語に於いては、その如何なる部分をとって見ても、継起的過程でないものはない。継起的過程現象が即ち言語である。かかる対象の性質を無視した自然科学的構造分析は、従って対象の本質とは距ったものを造り上げることになる。ソシュールの「言語(ラング)」の概念は、かくの如き方法上の誤の上に建てられたものであった。...
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(本文引用)...言語過程説においては、言語は人間の行為であり、従って、それは、また、当然、文化の一つである。文化の歴史は、自然史のように、樹幹図式によって把握されるべきものでなく、河川図式によって把握されなければならない。一本の川には、水源を異にした大小幾多の支流が流れ込んで、下流の大をなしている。そこには、種々様々な土質が流れ込んでいるに違いない。それらの構成分子を分析し、それらがどのように組合わされて、下流を成しているかを明かにすることが必要である。我々が知りたいのは、源流の奥の水源ではなくして、我々が、今、立っている下流についてである。すべての文化的記述は、下流の形成を明かにすることであって、そのために、上流への遡行も意義があるのである。言語史研究も、これと同じでなければならない。...
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(まえがき引用)...本書は過去における外国人、具体的にはポルトガル人、ロシア人、オランダ人、アメリカ人らの日本語観、日本語研究をとりあげて、その価値ある業績を世に紹介したいと考えて執筆したものである。本書によって、ヨーロッパやアメリカの人びとがいかに苦心して、日本語を学習し、かつ日本語の本質にせまらんとしたか、その苦難と真剣な日本語への学究の歴史が了承されると思う。日本人だから日本語がわかるなどと錯覚をおこし、外国人は日本語がマスターできぬときめつける日本人の思いあがりに、反省材料を与えることができれば、筆者の目的は達したことになる。...
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(本文引用)...ある語の「表記形」が一つであるということは、語と「表記形」とが一対一の対応を形成しているということであり、それはそれでもちろん評価できる。しかしそれは、「使う漢字の範囲」が定められ、かつ漢字ごとの「音訓」が定まっていなければ実現しにくい。つまりそのようなことが人為的に定められていなければそうはならないということである。…(中略)…少なくとも表記に関していえば、現代のような状態になったのは、日本語の長い歴史の中で、ここ百年ぐらいの間であり、それまでは、「揺れ」の時期がずっと続いていた。現在が日本語の歴史の中ではむしろ特異な状況下にあるのだが、現代に生きるわたしたちには、それがわかりにくい。そして、例えば一つの語に幾つもの書き方があった明治期が奇異なものとみえる。...
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(本文引用)...私たちが異った文化に、しかも限られた範囲で接するときは、個々の文化要素を統括する全体の構造がつかめることは稀であり、多くの場合、自分が出会う一部、または特殊な実例を、一般的に拡大してしまう傾向があるということである。しかもこの一般化は、必ず自分の文化の構造に従って行われるということが問題なのである...
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(本文引用)....今度はフランスの子供たちが、たとえば『里見八犬伝』の物語を、フランス語で楽しむようなことがあっても、悪くないはずでしょう。どうして現状ではそうなっていないのかといえば、これまでのフランスについての日本人の勉強や研究が、フランスそのものを知り、日本にはない優れたものをあちらから取り入れるということだけに集中していて、お返しに日本の優れたもの、世界に誇るべき日本人の言語文化財を、フランス人にも楽しんでもらおうという、発想も余裕もなかったからです。..
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(本文引用)...日本が国際社会で生き残っていくためには英語がもっとできなければいけないと言いだした人たちは、さきに指摘したように明治のときと同じく日本の指導者、エリート階級なのです。だからエリート階級が英語ができなくて国際的な場面で困っている、日本の国益が損なわれているということならば、何よりもまず、そのエリート階級を対象とした大改革をやるべきだというのが私の考えです。...
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(本文引用)しかしこのように外来語の多用に対して、どちらかと言えば理解を示す私でも、絶対に望ましくないと思う、まったく無意味どころか有害この上もない併存型の濫用がある。それは「行政サイドと致しましても、タックスペイヤーのニーズに応えるべく、システム作りをシリアスに検討中であります」といった、耳を掩いたくなるような種類の日本語である。頭の中で日本語を出来るだけ多くの英語に置き換えるゲームをやっているとしか思えないような、この種の馬鹿げた傾向は私たちの日常生活の中に、いま疫病のように拡がりだしている。...
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(本文引用)...英語とははなはだしく構造の異なる言語を母語とする人が、英語人としてふるまうということは、つきつめて言えばその本性をかくして、あるいはその本性を一時的にせよ棚上げして英語人としてふるまう、ウソとは言わずとも仮の姿だということになる。...
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(本文引用)...言語学では、《美しい言語》も《汚い言語》もない。言語学はこのような評価を伴うことについて、何の判断も下さないことになっている。..(中略)..しかし、人はどうにも評価を下したがるところがある。何かにつけ優劣を決め、自分は有利なほうにいたいと思う。言語についてもそうで、自分が使っている言語は高く評価されたい。高い評価というのは相対的なものであるため、他の言語が低くならなければならない。..(中略)..自分が苦労せずに手に入れたもの、たとえば性別、人種、出身地、家柄、それに母語といったもので威張るのは卑怯である。その反対に、努力して身につけたもの、たとえば学歴、職業などと並んで外国語を自慢するのは嫌味である。...
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(本文引用)...ソシュールの偉大なところは、比較言語学の方法に十分に熟達し、具体的な言語事実を客観的に処理する姿勢を身につけた上で、改めてコトバの普遍性の解明に挑戦しようとしたことです。単なる抽象的な議論を展開するのではなく、諸言語についての正確で幅広い知識をもとに、事実から一般的な性質を導き出すという確実な方法でコトバの普遍性に迫ろうとしたからこそ、ソシュールの学説が言語学に新たな展開をもたらすことができたのです。...
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(本文引用)...バタイユの言は、はからずも生(エロス)と切り離せない死(タナトス)の問題を提起する。…(中略)…ここにおいても私はあえて言おう、「死もまた言葉である」と。…(中略)…〈明日〉と〈昨日〉を知らない動物は、言葉が作り出した死におびえることもなければ、人間と同じ意味では死に到ることも決してない。谷川俊太郎氏も詩(うた)うように「鳥は生を名づけない/鳥はただ動いているだけだ/鳥は死を名づけない/鳥はただ動かなくなるだけだ。」...
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(本文引用)...世界中で地域方言や社会方言がその言語の「標準」語に向かって収束しているという事実もある。相互に隔たってゆく方言から新しい言語が発達するものだが、逆に方言は今、収束に向かっている。言語は着実に失われつつあるだけでなく、新しい言語もまったく発達していないし、クレオール化によるものを除いて、今後発達する様子も見られない。…(中略)…世界中で平衡状態が中断された。今後再び平衡状態が回復する、または回復できるだろうという兆しはない。…(中略)…今の状況がこのまま変わらないとすれば、現在起きている中断期の最終段階では、最も大きな威信を持った、単一の世界言語が残っているだけの状態となってしまうだろう...
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(本文引用)...子どもは、母語の情報処理を効率よく行うことができるよう、母語にとって関連ある情報には注意を向け、関係ない情報には注意を向けないような情報処理システムを、非常に早い段階からつくり上げる。したがって、言語音声に対する注意と、音のカテゴリー化などの非常に細かいレベルでの認知処理は、この時点で、それぞれの言語で必要な情報処置を最も効率よく行うために、特別に調整されたものとなる。…中略…この、母語の情報処理を最大限に効率化するためにつくられたシステムは、必ずしも、外国語の音声処理や文法処理に最適なものとはいえない場合が多い。それどころかむしろ、外国語の情報処理にとって、必要な情報に注意を向けず、排除してしまう原因にもなっている。...
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(本文引用)...個々の言語の背景的な言語体系(つまり、その文法)は、単に考えを表明するためだけの再生の手段ではなくて、それ自身、考えを形成するものであり、個人の知的活動、すなわち、自分の得た印象を分析したり、自分の蓄えた知識を総合したりするための指針であり、手引きであるということがわかったのである。考えをまとめるということは、古い意味での厳密に理性的な独立の過程ではなく、個々の言語の文法の一部であって、文法が違えば多かれ少なかれ異なってくるものなのである。われわれは、生まれつき身につけた言語の規定する線にそって自然を分割する。われわれが現象世界から分離してくる範疇とか型が見つかるのは、それらが、観察者にすぐ面して存在しているからというのではない。そうではなくて、この世界というものは、さまざまな印象の変転きわまりない流れとして提示されており、それをわれわれの心――つまり、われわれの心の中にある言語体系というのと大体同じもの――が体系づけなくてはならないということなのである。...
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